Shin Yamagata

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「緊張感」




それでもわたしが写真(写真以外も)を見るときに(それは他人の写真もわたしが撮影した写真も)この「緊張感」という基準は必ず存在する。何が写っているのかを重視する人もいるし、撮影者の内面を重視する人もいるけど、わたしはこの「緊張感」をまず重視する。この「緊張感」の転がり方とか幅とかそういうことに関心がある(これだけではない)。だからこの「緊張感」はなんですかという話だった。この「緊張感」は独立してあるのかと考えるとそうではないような気がする。それはいろんなものと関わりあっているのだろう。そこには写っている対象も関わるだろう。林檎が一つ机に載っていたとする。机の形が丸いのか四角いのか、林檎は真っ直ぐ立っているのか倒れているのか、机の真ん中にあるのか端にあるのか、そういうことの違いによって撮影者の立つ位置やカメラの角度(フレーミング)も変わるだろう。そういうことでこの「緊張感」は変化していく。そうか、だからこれはそこにあるものの状態、その背景にあるもの、そういうものの「関係」が関与しているのかもしれない。「関係」か。またややこしい言葉を発してしまった。。。どうしたらいいものか。とりあえず置いておこう。それでこの「緊張感」はどこにあるのか。写真や絵の中にこの「緊張感」があるのか、それともそれを見る人間の中にあるのかという問題もありそうな気がする。他の場所も考えられるか。でもこれは「緊張感」のある写真ってなるから基本的には写真にありそうな気はするけど、でもこれはわたしだけがそう思っていることなのかもしれないから、わたしの中にあるのかもしれない。それでもマチスセザンヌもこの「緊張感」をわかっているから、同じような「緊張感」を持った絵を描けたのだろうから、世の中の全員ではないだろうけど、この「緊張感」を共有できる人がいるということになるのだろうか。そうなのだろうか。もしかしたらマチスセザンヌもそんなことは全く思っていなくて、これはわたしの完全な誤解だということも考えることができる。
つづく