Shin Yamagata

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9月11日




海の周辺の写真の中には山の写真も混ざる、島だ。押し付けがましさがないというのはどういうことか、カメラマンはどこかでシャッターを押す、目の前を流れる時間のどこに切れ目を入れるのか、その選び方がカメラマンのあらゆる態度を表に出してしまう。人物を撮影するときには被写体の表情よりも被写体との物理的な距離と背景が気になる、そういう撮り方があり、この際表情はどんな表情でもいい、変化する被写体の表情の中からどの表情を選びシャッターを押すのか、というのはもうどうでもよくなるような写真があって、すべての表情を受け入れることが出来る写真があって、それは見るわたしの問題で、深刻な表情なのか笑っているのかぽかんとしているのか、それはわたしの問題ではないし、表情から何かを読み取れるとは思っていない。写した人の喜びが伝わるような写真はどうでもいいしそういうのはどこか押し付けがましいし写している人に興味はない、写真は関係だとか言って被写体との関係が写っているなんていうのは誰でも簡単に飛びついてしまう言葉だし誰もが言いそうな言葉だからそんな言葉はあやしくて信用できない、だからわたしがわたしがとか関係性がとかそんなことをしゃべっているような、言っているような写真はもう見たくないと思っているときにはこういう写真を見ればいい。都市を歩く、その感覚がぶわっとよみがえるのはわたしは都市を歩きながら写真を撮るからなのか、写真を撮らない人がこの写真を見ても何も感じることはないのか、歩道橋の階段と歩道が接触しているあたりはおもしろい。これは写真を撮る人間だけが知っていることなのか。歩道橋を下りてくる人、登ろうとする人、歩道を歩いている人が一瞬見事に混ざり合う、交差するというのか、反発し合うと言ってもいい、そういう瞬間がある。そういう瞬間にぱっとカメラを向けてシャッターを押すのは技術的なむつかしさもある。そういう場面で撮れるときは、反応できるときは全身がアンテナになっているようなときでたまたま撮れたりはしない。そういうのをわかっているからこの歩道橋の写真を見てぞくっとするのか、違うのか、そんなのわかっていなくてもこの写真を見ればぞくっとするのか、もうわたしにはわからない、しかし、どうしてわたしはわたし意外の人がどう写真を見るのか考えてしまうのか、そんなのは本当はどうでもいいんじゃないのか、それに写真を普段撮っていなくても写真は自由に見ることができる、好きに見ればいい、いや、本当はそう思っていないのではないか、くだらん見方をしてるねーって言いたいのではないか、山にはダムがある。構図がかっちりしていてカチカチの写真だ。何かを挟み込む余地がない、細部までびっちり写っている写真は鏡のように何かをはねつける、しかしそれは嘘だ、わたしにはこの風景のどこかに懐かしさがある、わたしが写真を撮りに行くとき、このような風景を横目で見て通り過ぎている、崩れた山肌はコンクリートで覆われる、固められた土から雑草が生えてくる、懐かしさがどこかにあるのに写真をよく見れば懐かしさは吹き飛んでしまう、こんなのじゃないと思えてくる、こんなのは見たことがない、これはなんだ、コンクリートってこんなんだったのか、橋がこんな風に見えたことはない、なのにやっぱり懐かしさがある、でもよく見ると懐かしさはない、そのような往復運動がこの写真を見るときにまったく作動しないわけではないがそれが言いたかったことではない。もっと別のことが重要だ。それにしたってこれら三つの写真のバラバラさといったらない。こんなにバラバラなのにそれぞれのおもしろさがある。ということは共通点があるのかもしれない、などと考えてしまうと間違った方へ進んでしまう、共通点なんて見つけても仕方がない、共通点なんてなくてもおもしろいこともある、そんなことよりじっくり見て楽しむ。
http://www.konicaminolta.jp/plaza/schedule/2015september/gallery_c_150908.html

http://gallery-photosynthesis.com/archives/700

http://www.akionagasawa.com/jp/gallery/current-exhibition/