Shin Yamagata

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6月1日
山手線に乗った。次の駅で座ることができた。内回りでも外回りでもほとんど時間が変わらない駅に向かっていたからすぐに座れてよかった。目の前には背筋がぴんと伸びて厚化粧で顔が白くなって年齢不詳になったおばさんが座っているのだけど、次の駅で人が前に立って見えなくなった。目の前に立った男の人は旅行者らしく、大きな荷物を持ってわからない言葉を話しながらスマホをいじっている。ドア近くにも外国人らしい旅行者が数人立っている。顔をあげると車内の広告が目に入る。動画だ。そのような効果がはじめから備わっているのか、一度見てしまうと、動画からしばらく目が離せなくなってしまう。わたしには一切関係のない広告だと思っているのだけど、知らないうちに汚染されてしまうのが広告だ。除菌室のようなピカピカのきれいなイメージを垂れ流すこんな広告からはすぐにでも目を離さなければならないと思いながらもだらだらと見てしまってから、ようやく窓の外へ目を移す。ビル、ビル、ビル、汚れたビル、

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11月6日
ニコンがやっている中高生向けのフォトコンテストがある(https://www.nikon-image.com/activity/topeye/192/index.html)。審査員は藤岡亜弥と熊切大輔だ。全ての写真ではないが、こういう写真はどこかで見たことがある。これらの写真は、大人のモノマネでしかないのではないか。アサヒカメラや日本カメラの誌上コンテストと何が違うのか、それらのジュニア版でも目指しているのか。これらの写真を撮った中高生は悪くない。こういう写真が評価されると思わせている大人がつまらない。これらの写真を選んでいるこの二人の審査員がつまらない。

中でも気になったのが、2Lなど小さなサイズの写真が多かったことです。小さなサイズでたくさん出すより、A4サイズで細部に気を配って1枚作り上げる方が作品の質も上がり、写真を考える力もつきます。また、確かな技術がありアイデアが秀逸な作品も、タイトルが甘かったりコメントに力が入っていないと「どうかな?」と思ってしまいます。自分の写真を、言葉を使って考えることもとても重要です。

これは藤岡亜弥のコメントだ。もっともらしいことが書いてある。しかし、である。サイズを大きくして細部に気を配る、とあるが、それがなぜ大事なのか。その発想が、もう大人のくだらない発想なのではないか。中学生や高校生には気になるものにまずカメラを向けてもらいたい。われわれ大人たちが決して目を向けないだろうものにカメラを向けるはずだ。そのことがまず尊いのではないか。細部に気を配って向上させる「質」は、いったい何に貢献するというのか。その「質」は、誰に向けての質なのか。写真の力はそんなことで身についたりはしない。そんなことはあとからいくらでもつけられる力であって、今、彼ら彼女らが持っている関心や興味の方がよほど写真(写真だけに限らない)の力に結びつく。そして、サイズを大きくするとお金がかかる。中学生や高校生が自由に使えるお金は限られている。裕福な家庭の生徒もいれば、そうではない生徒もいる。大きなプリントをしたくてもできない生徒もいる。身の丈にあったプリントをしろ、どこかの国のクソみたいな大臣が言うことと、これでは同じではないか。小さなプリントがダメだというのなら、応募規約にA4サイズのみと書けばいい。2Lを外せばいい。現実的なお金の問題を無視したコメントにはがっかりとさせられる。もちろん、そんなつもりで言っていないだろうとは思う。しかし、不用意な発言には違いないし、言葉が足りていない。そして、そんなことよりも、もっと他に優先させるべきことはいくらでもあるのではないか。現在の大人の二軍を育てるような「指導」をしたいと藤岡亜弥は思っているのか。これでは受験勉強と変わりがない。
後半のコメントも気になる。言葉で色々考えた上でシャッターを押す大人が増えている中で、言葉ではない何かを駆動力としてシャッターを押す中高生の写真を、もっと楽しもうという姿勢をどうして持つことができないのか。言葉を使わなくても考えることはできる。歩く、カメラを向ける、シャッターを押す、その行為そのものがすでに考えるということだ。言葉だけが考えるための道具ではない。大人によって与えられた不用意でずさんな言葉が彼ら彼女らの中に入り込むことによって、彼ら彼女らの中にあった何かをまったく別のものに変えてしまう可能性がある。つまらない方向へだ。この審査結果が、その方向を指し示しているのではないか。言葉では簡単に嘘をつくことができる。誰かが言った言葉をオウムのようにそのまま吐き出せることができる。そんな言葉に信頼を寄せるよりもまず、何にカメラを向けているのかを見なくてはならないのではないか。なぜカメラを持って歩くのか。自身はそんなことも忘れてしまったのか。なぜ、中高生に、今の、こんな、クソみたいな大人の枠を当てはめようとするのか。とても悲しい出来事だ。(審査員が二人いるのになぜ藤岡亜弥だけに触れているかといえば、藤岡亜弥に期待していたからだ)


TopEyeフォトコンテスト
https://www.nikon-image.com/activity/topeye/

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5月16日
メガネを買って、翌日には右耳が痛くなり、再度店を訪れ調節してもらうものの、まだ痛い。さらに、前回よりゆるくなってメガネが少しずり落ちてくる。余計に悪くなってしまったのだから、また店に足を運ぶことになった。何度も店に行かなければならないのはめんどくさい。一度できちっときめてくれるベテラン店員さんはいないものか。この店で一番のベテランの人に直してもらいたい、そう正直に伝えた。聞いていた男はその質問を無視して私のメガネを触りはじめた。まさか、あなたがこの店一番のベテランだったのか、とわたしは思うはずがない。不審な目でその男を見る。メガネを外されているからもう男の顔はぼやけている。これもマニュアル化された接客態度なのだろうとなんとなく思った。この人はベテランだ、という人に、かつて、わたしは会ったことがある。その人はメガネをかけている私の顔を見て、耳のあたりを見て、ああ、ここが痛いですね、こちらが何かをいう前に言い当て、目で見て触って調節をして、どうですか? と最後に一言だけ言った。しかし、目の前の男は

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4月12日
ちょっと前にすれ違ったおばあさんが坂の下から上ってくる。手に黄色いものを持っている。坂の途中にあった八朔の木から実をもいできたのだろう。こっちは下っているのだからまたすれ違うことになる。すれ違うのはこれで三度目。会釈しながらすれ違おうとしたら、これ食べなさい、喉渇きますやろ、と言っておばあさんは食べかけの八朔から、三切れ切り離して手渡してくれた。ありがとうございます、おばあさんの指が太くて芋虫に見える。太い毛糸で編まれた山吹色の不思議な形をした帽子の下の顔は笑っているのだけど目の奥は笑っていない。本当は欲しくないし、もらったとしても食べないような気はするのだけど、もうおばあさんに向けて手は伸びていた。手の上にのった黄色い八朔の実はひんやりと冷たい、そして、軽い。きっと、

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1月4日
物干しから見える木の青い実がどうやら食べごろになったらしく、ここ一週間ほどでほとんどなくなりつつある。よく見かける鳥はヒヨドリで、それは大きくて目立つからであって、見ていないときにメジロなんかが来ている可能性もあるけれど、メジロがその青い実を食べている姿は見たことがなくて、でも実が食べごろになる前のその木にときどきメジロがきていたのは知っているから、なんとなくそうかもしれないと思っている。木の下には青い実がそのままころがっていたり、その実が潰れたような跡がたくさんあって、人間が踏んだのかなと思うのだけど、人間がそこを踏んで歩かないだろうというところにも、その青い実の潰れた跡が残っているから、たぶん鳥の仕業なのかと思うのだけど、もしかしたらその実を食い過ぎた鳥の糞がそんな感じで落ちているだけなのかもしれないけど、鳥の糞にはだいたい白いものが混じっていて、あの白いのは尿素か何かで、人間とは違うやり方で尿酸だか尿素だかを排出しているというようなことを高校生の時に習ったような気もするのだけど、もう記憶はあやふやで、