Shin Yamagata

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「LAND SITE MOMENT ELEMENT」






UP FIELD GALLERY 企画展
http://www.upfield-gallery.jp/
「LAND SITE MOMENT ELEMENT」
★DIVISION-1
坂本政十賜  山方伸
 2009年5月15日(金)−6月2日(火)
★DIVISION-2
鈴木奈緒  広田敦子  湊雅博  吉村朗
 2009年6月5日(金)−6月23日(火)
★DIVISION-3
相馬泰  越田滋
 2009年6月26日(金)−7月14日(火)
ギャラリートーク(参加費¥500)
・DIVISION-1
   5月23日(土)16:00〜  出品作家×阪根正行(書店員・芸術評論)
・DIVISION-2
   6月13日(土)16:00〜  出品作家×藤村里美(東京都写真美術館 学芸員
・DIVISION-3
   7月 4日(土)15:00〜  出品作家×タカザワケンジ(ライター/エディター)
   開廊時間 12:00~19:00 会期中無休


今回の企画展について
 今回の展示は「写真」にとっての風景というものを素材として、写真・美術
双方の立場を背景にした8人が集まり、様々なアプローチで作品を展開してい
きます。写真の持つ多様な要素・性質(色・フォーカス・時間性・距離感・歴
史性など)を抽出し組み合わせることで制作された作品は、互いに共鳴・対立
し合うことで写真表現の様々な実験とその可能性として、鑑賞者に多くの共感、
反発、疑問を抱かせ「写真」というものに対する考えを刺激、挑発することで
しょう。
又、近年写真が現代美術の一分野として認識されている中で、各作家の出自の
違いによる作品の在り様が、旧来の写真と現代美術としての写真双方を考える
手がかりになるかもしれません。
各人が提示する「風景」写真を通して、認識されている日常の世界と写真とし
て「風景」化されたものとの相違をふまえた上で、確かだと考えている世界に
疑問を感じ始めることが、鑑賞者にとって「風景」への扉を開く契機になると
考えています。

「LAND SITE MOMENT ELEMENT」に寄せて
 ここで集う8人の写真家は、風景をキーワードに3期に分けた展覧会を組織し
た。最大公約数としての「風景」は、しかし、8人の写真において、まったく異
なる形で提示されることになる。とは言え、吉村朗の返還前の香港の都市風景(1996
年)を除けば、本展の風景写真には、90年代に盛んに見られた都市の機能から
逸脱した空間への眼差しが、一見したところ影を潜めているように見える。言わ
ば、都市風景において、打ち捨てられた風景への積極的な眼差しをここで強く確
認出来る訳ではないということだ。むしろ、関心は対象へと向かうのではなく、
振り向かれることのない風景への撮り手の眼差し自体にその重点が移行したかの
ようだ。そして、写真にとって普遍的な課題、「見られたもの」と「写されたもの」
との差異、ないしは一致-−-限りなくこの距離を縮めようとしている相馬泰の場
合等-−-において、それぞれの撮り手の内在する記憶と視覚(あるいは知覚)の
せめぎ合いが見られるのだ。
従って、本展の作品に「風景」という主題以外の共通点を見出すとすれば、それ
は、いずれも、写された対象それ自体に強く興味が引かれるものではない、とい
う点だろう。ドキュメンタリー写真を持ち出すまでもなく、家族のアルバムや、
風俗写真、ポルノグラフィーのように、そこに映された対象に何よりも観者の興
味が殊更注がれる類いのものではない、ということ。それは、言い方を変えれば、
写された対象よりも撮影をした作家=著作者の意図に作品存在の意義を見出そう
としているということになろうか。ところで、作り手の意図=眼差しに重点が置
かれることは、モダニズム芸術における作家性の優位をも担保するものだ。写真
の分野においては、アンリ・カルティエブレッソンが掲げたモットー、すなわ
ち絶対的な構図の優位、演出写真の否定、トリミングの拒否に見られるように、
その表明の背景には、写真誕生から20世紀の半ばまで、イメージの著作権は、
写真家ではなく長らく出版社や報道機関に帰属していたことを雄弁に語っている。
ブレッソンの作為なき写真は、その後、エルスケンやウイリアム・クラインの演
出された作品によって、反旗が翻されるのだが、いずれにせよ作家性が重要視さ
れることになったことに変わりはない。一方、風景においては、クラインのもと
でアシスタントをつとめていたジャン=マルク・ビュスタモントによる「tableau」
が、1977年から制作が開始される。この90年代の空虚な風景を先取りする
ような作品が登場して以降、写真家は、断片にすぎない現実世界の一こまを、何
ら変哲のない風景として注意深く構図取りすることで、その断片性をさらに強化
させることになった。そして、写されたものに対する観者の期待、すなわち、そ
の真実性や事実性については、宙づりにしたまま提示されてしまうのだ。
ところで、スペインの建築思想家であるイグナシ・デ・ソラ=モラリス・ルビオ
ーによる「テラン・ヴァーグ」が、田中純によって訳されたのは、1996年の
ことだ(1)。「何かしら一連の出来事が起こったのちの放棄された空虚な所」とし
て定義付けられたこの言葉は、90年代の風景写真を語る有効な「概念用語」で
あった。あるいは、当時の写真の多くに、この言葉から誘発される「空虚」、「曖
昧」といった意味が読み取れた、という方が正確かもしれない。「忘れ去られたか
のようなこのような場所においては、過去の記憶が現在よりも優位であるように
見える」と描写される風景写真。いくら2009年が、100年あるかないかの
未曾有の経済不況で幕明けたとは言え、80年代後半からのバブル経済がはじけ、
90年代の前半が、それこそまれに見る経済不況の時代であったことは、未だ記
憶に新しいところだろう。地上げによって生まれた更地が、日常の風景として、
しばしの間、放置されていた時代。ところが、その時からすでに10数年を経た
今、かりにテラン・ヴァーグの視座を風景に付与しようとしたとき、このロマン
主義的な記憶への復活すらも反古にされようとしているのが今の有り様だろう。
記憶への憧憬は、廃墟という時間的、空間的差異さえも無効とさせる時代のアク
チュアリティによって葬り去られてしまっている。このような中では、写真家は、
ただリアリティの中で戯れることにしか、その活動の場が見出せなくなっている
のだ。現実世界の姿形が、実際に変化していることを意味しているのではないと
は言え、その変容の速度は、およそ人的な感性では追いつけなくなっている。テ
ラン・ヴァーグとして意味する風景が、当時の逞しき経済活動--新たな高層ビル
の林立等--によって消滅したのもつかの間、風景全体が、今や予測不能のリアリ
ティとして現前化されている。
但し、テラン・ヴァーグが、都市の内部にありながらも、都市の日常的活動であ
る生産や消費を行わない、つまり都市の外部であり、都市のシステムとは異質な
存在であり、自己内部に潜む他者であり都市の無意識であるとすれば、本展の風
景写真もまた、「自己の内なる「他者性」の空間化されたイメージ」であることに
変わりはないのかもしれない。
ところで、先に触れた「空虚」としての「テラン・ヴァーグ」は、モダニズム
画が空虚をイリュージョンとして経験することとは異なる批評原理だ。記号論
に言う、イコンとしての絵画にたいするインデックス(指標)としての写真にお
いて、空虚なる風景は、イリュージョンとして存在などしない。そもそも、空虚
とは、非在の概念にすぎないのだし、それは、言わばロマン主義的な言説の延長
にすぎないからだ。従って、ここでいう空虚とは、文字通り何もない、というこ
とになろうか。あるいは、それは、何もないのではなく、何ものかは「ある」、あ
るいは「あった」、という事態。こうした言わば「コードなき」風景から、廃墟が
想起され、過去の記憶が優先される新たな「物語」が再生産されてきた。現代の、
つまりここでの風景写真は明らかにその流れの断絶の上に成立している。


                                      
坂本政十賜は、都市風景を中心に作品化している。ここでの都市風景は、改めて
都市における人間関係の希薄さや、お互いに無意識のうちに取り合う距離感に都
市における「危うさ」や「不気味さ」が浮上している。モダニズム以来の都市の
「予断を許さない」現実は、確かに写真にとっては今なお尽きることのない題材
だ。一方、山方伸の作品からは、撮り手が、それが旅であるのかどうかは別にし
て、移動の中で出会った風景であることが了解出来る。山方は、様々な場を訪れ、
それぞれの風景と対峙するが、そこには、まさにその風景を現前化させようとす
る山方自身が浮上する。これは、同様に都市を徘徊しながら風景に向かう相馬の
眼差しとは決定的に異なる点だろう。次の場に誘うような余地を残した風景が何
点か散見出来るのも、山方が注ぐ眼差しが移行という行為の中で示されている。
都市風景を撮影した相馬は、山方のように移動する際に見逃せない風景というよ
りは、およそ見逃すか、あるいは、意識外にある風景を丹念に救い上げている。
結果、日常の中において打ち捨てられていた風景に、俄然新鮮な眼差しを意識さ
せる作品である。ここでは、極めて確信犯的な、つまり「見られるもの」と「写
されるもの」との限りない一致を見ることが出来る。吉村のぼやけた都市風景は、
記憶と結託しているはずの写真イメージが、その虚ろな眼差しによってむしろ忘
却への逃走とでもいうべき事態を示している。全体を想起させない部分とでもい
うべき構図は、吉村とは異なる意図によって、広田敦子がイメージ化している。
尽きることのない迷走を想起させる眼差しは、それぞれの対象との見慣れない距
離感を生み出すと同時に、それ自体が撮り手の内的意識を隠喩化し、シークエン
スとして展示されることで、ここでは、新たな物語が再編されようとしている。
鈴木奈緒の都市風景に写り込んでいる人々は、鈴木の眼差しの意識外にあり、そ
の姿はどれも日常の行為において没入している。また、明らかに撮り手の予想外
のものが写し込まれる可能性を予期しており、このことが、イメージから一種の
演劇性を回避させ、日常的な美すら感じさせる。越田滋は、「メトロポリスの骨格
を構成する巨大な下部構造の幾何学的配置」(イグナシ)、または人工的自然物へ
の眼差しを示しつつも、そうした支配的な都市風景の中に見出せる「亀裂」のよ
うなイメージに関心を注いでいる。今回の作品の中でも、湊雅博の作品は、これ
まで見た風景写真とは決定的に異なる。というよりも、これは、風景写真ではな
い。徹底した平面化、正面性。とは言え、モダニズム絵画のような構成要素の自
律化がここで見られる訳ではない。むしろ、その表情は、豊穣でもあり、過剰で
もあり、部分から全体へ、全体から部分へのトートロジーとでもいうべきイロニ
ーさえ漂わせている。


天野太郎(美術批評)


1)“Anyplace”,NTT株式会社,1996年。田中純氏は、東京大学大学院総合文化研究
科准教授。