Shin Yamagata

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「何」「どう」




「そりゃーあんた、おもろいもん撮ったら、それで写真はおもろいんかい??ええ??写真っちゅーのは、おもろいもんを撮ったもん勝ちか?ええ?どうやねん?そこになんかおもろいもんがあって、そやな〜、なんやろな〜、例えば、酔っ払って公園でフルチンになってる人とかか?ええ?例えが悪い?ほう、そしたら、あれか、なんやろな〜、ああ、あれあれ。もの凄い厚着をしてて、ほとんど素肌が見えへん叶姉妹を撮ったらそれでええのか、っちゅー話か?はあ?そんなんをパチッと撮ったらそれで一丁あがりか?ええ?写真ちゅーのはそういうもんなんか?ほほーう、ええ??」
こういう言い方はダメなような気がする。関西弁がダメとかそんなんじゃなくて。

日本カメラ5月号に坂本政十賜の写真と共に掲載されている文章を引用する。

10年ほど前か。それまで僕は、変わった風景を探し求めて撮影していたのだが、何か不自由を感じ、いやになってしまった。全く興味の無かった、街の写真を撮り始めたのはそのころだった。はじめは大阪が好きで通っていた。東京で育ち暮らす僕から見た、大阪というローカルな都市の異質な部分が面白かった。だが出来上がった写真を見ると、そういう所を全く撮っていなかった。写っていたのは、日本の都市ならどこにでもある風景。それで東京を撮り始めた。この写真は凡庸なものを撮っているが、写真として凡庸なものを作ろうとは思っていない。でも「いつもの街が違って見える」のは、簡単な事じゃない。

写真を始めた頃は「何」を撮るかということばかり考えていた。でも今は「どう」撮るかということばかり考えていて、「何」についてはもうほとんど考えていない。なぜ「どう」のほうが重要になってしまったのかということだけど、そういうことに対応する明確な言葉を持ち合わせていなかった。でも最近ようやくそういうことに対する言葉が出てきたような気がする。