Shin Yamagata

お知らせ  zine  Twitter   Instagram


 

11月13日




OGUMAG(http://www4.atword.jp/ogumag/category/%e7%8f%be%e5%9c%a8%e5%b1%95%e7%a4%ba%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%e4%bd%9c%e5%93%81/)関口 正夫写真展 「こと 2010-2012」行く。
オープニングパーティーでたくさんの人が来ている。いわゆる大御所もちらほら。「なにげない」と形容されがちな写真はパッと見れば確かになにげないのかもしれない。どこで読んだのかあるいは夢で見たのか、桑沢デザイン研究所に行っていたのだから構図はきちんととれるはずなのに、それを捨ててなにげない、どこにでもあるような日常を撮る……というような言葉が頭の中にあったのだが、それはどうやら間違っている。そんなのは写真を見ればすぐにわかることだった。テクニックを放棄、などと言ったりするが、にじみ出るものがある。テクニックがあるからこそできることがある。一度身につけたテクニックを放棄して、テクニックのなかったころに戻ることは余程のことがない限り無理だろう。ま、そういうのを含めた「テクニックの放棄」なのか?そういうことか。
少し離れたところに人が写っている。アメリカのジョージ・イーストマンハウスのあの写真展、それらの写真と外見上似ているということで「コンポラ」と名付けられてしまったのか?それにしても外見上写真は似ていない。距離感が似ているだけなんじゃないか?距離感が似ていることを「外見上似ている」というのか?そういうことか。距離感も似ているのか?
「こと」というタイトルを手がかりに写真に入っていくことも可能だけど、わたしはそこを手がかりとしない。それでも「こと」というのは引っ掛かってしまう。
「あっ」と思うものが写っていたりする、目がそこに行くけど目はそこにとどまらず他へと移りはじめ、気が付くとそこに「こと」という言葉が割り込んできている。目は写っているものを追おうとしているのに「こと」という言葉の割り込みによって別のことが頭に浮かんできたりしてしまう。写真を見ていると頻繁にそういうことが起こってしまう。こんなにもタイトルに引きずられながら写真を見ることは滅多にない。
おそろしくタイトル。
ツボにどすんとはまる写真が何枚かある。それらの写真はどことなく間合いがおかしい。へんな「間」がぽかんと空いている。そういうことを基点に見ていけばどの写真も少しおかしな「間」があるような気もする。
画面の中の空間を見ればそれはそれでまたおかしな空間があったりしておもしろい。
他にも様々なことから写真を見ることは可能だ。そんなことを言えばどの写真だって様々な角度から見ることができるのだし、言葉でいくらでも飾ることは出来るのだし、そんなことは「評論家」と呼ばれる人間の得意なことではあるのだけど、関口さんの写真はそういうことではなくて、さらっと、開かれている。その心地よさもある。