Shin Yamagata

お知らせ  zine  Twitter   Instagram


 

証拠




「記録」という伝家の宝刀、観光地。非常事態のときにはジャーナリストになるのが写真家なのか。一つに括ることはできない。個人的な思いがあって撮影している人には何かを言いにくい。感情。それでも現場に足を運んで撮影するのは目の前にあることと写真に写ったものがほとんど同じだと思われているからか。見る側も、撮る側も。画像の操作なんて今は簡単にできてしまうけど、まだそこは壊れていないのか。警察だって現場で写真を撮るのだし、それが「証拠」になったりもするのか。震災の写真は「証拠」としての写真なのか。「記録」。写真にはそういう側面がある。それはとりあえず今のところ機能している。そのことを重視して撮る写真とそのことをあまり気にしないで撮る写真は変わってくる。これは按配の問題か。作家の態度の問題か。おもしろいものを撮ればそれで写真はおもしろくなるのかといえばならない。光の状態、物理的な距離、カメラやレンズの種類等で見え方は変わる。当然震災を撮影している写真家もそういうことに注意を払って撮影しているように思える。内容と形式というやつなのか。そのバランスか。同じことをまた書いている。「記録写真」という言葉がある。これか。というか、この辺が曖昧なのではないか。「記録」として撮影するのと「作品」として撮影するのが。「記録」と「作品」では目的も違うだろう。違うものを同じ定規で測ろうとするからおかしなことになるのではないのか。「写真」という言葉一つで何かを言おうとするからおかしくなるのだろう。普段、写真家として「作品」を発表している人たちがこのときばかりは「記録」として発表しているのかもしれない。その辺がよくわからない。そうだった、だから今わたしの定規について何か書こうとしているのだった。ほんとうは眠れなかった夜のことを書いていたのだった。
つづく