Shin Yamagata

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4月27日
飯沢耕太郎の「アラーキーは殺されるべきか?」という文章(http://realkyoto.jp/article/izawa-kotaro/)。「荒木さんの写真のバックグラウンドを理解せずに、かなり感情的に非難するものが多いように思う。それはあまり好ましくないので、」ということで書き始められるのだが、そもそもバックグランドは理解しなくてはならないものなのだろうか、なぜ理解しなければならないのだろうか。殺人を犯した人間のバックグラウンドを知ることによって、情状酌量の余地が生まれることはあり得る。つまり、飯沢耕太郎アラーキーの弁護人を買って出たということなのだろうか(そもそも何のコメントも出していないアラーキー情状酌量の余地なんてあるのか、写真のバックグラウンドはまた別の話になるのではないのか)。「当事者同士の問題に口を挟むつもりはない」などと言いながらアラーキーを弁護する立場に立ってこの文章を書きますと宣言して書き始めているのだろうか。そしてそのバックグラウンドの説明にどれほどの説得力があるのだろうか。「2000年代になると、荒木さん撮られたいというモデル志望の女性たちが少しずつ減っていく。KaoRiさんの文章を読んでやや驚いたのは、彼女が2001年から16年まで、なんと16年間も荒木さんのモデルを務めていたということだ。以前は長くて2〜3年ではなかっただろうか」などという、事実なのか推測なのかよくわからない文章が散見され、こういうのを書くときは、きちんと調査して、2000年までは毎年何人くらいのモデル志望の女性がアラーキーのところやってきていたけど以降はこれくらいまで減った、という具体的な数字を示さないと何の説得力もない。「時代は変わった」などという何の意味もない定型文から、空想で書かれているのか事実に基づいて書かれているのかわからない時代背景を書こうとして、というかそれ以前に、やはり「関係者」はこういうことしか言えないのか。エッセイだからといってこんなふわついた言葉を並べるのが写真評論家なのか。