Shin Yamagata

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ハツルーム




ハツルームだと思って読んでいたけど、読み終わってからハルツームだということがわかった。新潮6月号に載っていた柴崎友香さんの「ハルツームにわたしはいない」を読んでいた。前に柴崎さんは、東京の木は大きい、関西はこんな大きい木はないでしょ?とか言っていて、阪根さんのブログを読むと(http://d.hatena.ne.jp/m-sakane/20100613)そこでも柴崎さんは大きな木の話をしていて、そしてこの小説にも大きな木が出てきていた。ギャラリーの横にある階段の踊り場に置いてある椅子に座って読んでいたけど、横にある窓から時々雨が入ってきて、本に雨のしみがシュッと時々滲んでいた。柴崎さんの小説の後に続いて「[作家紹介]柴崎友香」という文章を佐々木敦さんが書いていてその出だしはこうだった。

 すべての小説家は(小説家に限らないが)何らかのかたちで「時間」と「空間」を相手取っている。

僕が住んでいる近所にも大きな木が何本かある。今の季節は葉が上空でボサーと広がっていて、遠くからでもその緑色の塊がよく見える。晴れた日にその木の下を歩くと急に暗くなってしまうくらい上空で葉がボサーと広がっている。
木は写真のようだと思っていた時期があった。時期があったというか、今でも少しはそう思っている。木は写真だ、なんて言うと変な誤解を生むのかもしれない。木は同じ場所で光を浴び続けている(もちろん雨も)。光は太陽の光だけでなく、周りからの反射光も同じように浴び続けている。反射光というのはその場の風景なのかもしれない。そうやってその場の光を浴び続けて木は大きくなっていく。光(風景)が木の中に蓄積されているような気もする。やっぱりこんなことを書くと誤解されるかもしれない。実際には葉っぱで光合成をして栄養を作り出してどんどん木は大きくなっていくのは当たり前で、その場の風景を吸収して大きくなっているわけではない。それでもやっぱり木はその同じ場所でずっと光を浴び続けている。そして十年前の光と今の光は違っていて、それは十年前の風景と今の風景が違っていることと同じで、それでも木は同じ場所で光を浴び続けている。
写真家も「時間」と「空間」を相手取っているのかもしれない(もちろん「社会問題」を相手取っている写真家もいるし、もっと違うことを相手取っている写真家もいる)。僕はシャッタースピードのことは考えるけど「時間」についてはあまり考えていないのかもしれない。それでも「空間」については全く考えてないわけでもないと思う。シャッターを押せばフィルムは光を受け止める。デジタルカメラだとCCDが受け止めるのだろうか。CCDだったっけ?別のものだったっけ。よくわからない。とにかく写真には光が必要で、そして木にも光が必要だ。
柴崎さんの「時間」と「空間」には「大きな木」というのが何か関係しているのかもしれないと思った。
木の話と関係ないけど、

 高架を走る新宿行きの電車に乗った。座席は一つだけ空いていたからそこに座った。窓の外は空が見えた。高い建物が少ない。全然ない。街の全体が低い。あとは全部青かった。

こういう文章がいいなあと思った。