Shin Yamagata

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10月24日




表参道画廊、田村玲子写真展、「生と空間」行く(http://www.omotesando-garo.com/link.12/tamura.html)。
この展示が始まる前に家に写真展の案内状が届いていた。そこに印刷された写真はボケていた。そして全体的に灰色だった、カラー写真だけど。だから少しじめっとしたイメージを持っていたけど、実際は明るかった。日差しも写っていた。でも全部ボケていた。ボケているのにきちんと撮られている。ボケているからといってブレていたりアレていたりはしないし、傾いてもいない。きちんと撮られている。ボケ具合もコントロールされているようだ。これはボケすぎているけどこれはあまりボケていないというようなことはない。それはボケをコントロールしているだけでなく、物理的な距離もコントロールされているということだ。色が滲んでいる。じっと見ていると写真ではないような感じが少しだけする。ピントの合った写真をみているときの感覚とは別の感覚が沸き起こりそうになり、またピントの合っている写真を見ているときの感覚になろうとして、その感覚の往復運動が起こる。奇妙だ。見ているときは佐野陽一(http://www.geocities.jp/gaizensei2006/sano.html)の写真を思い起こすことはなかったが、これを書いているときに思い起こしてしまったけど、そんなことはどうでもいい。全然違う。比較できないだろう。比較しようと思えばできなくもないが。ボケた写真には大きなガラス、これは窓か、や、窓や、ぴかぴかに磨かれた床が写っており、そこに写りこむ風景も当然ボケている。ボケている画面の中には奥行きが感じられる。それはその反射面に映りこんでいるボケた画像の影響も強いのだろうか。写真を見ているとニヤけてしまうのは、この写真がおもしろいからだ。何がおもしろいのかといえばまずやっぱり、ボケているのにきちんと撮られている、ボケているのに美しい、この美しさはきちんと撮られていることに由来しているのか、色の滲みが、差し込む光が、草の緑色が、窓の向こう側が、それらがボケてあることが美しいのか。ボケている理由はきちんとあるようだ。本人から聞いたのだから間違いない。でもその言葉を聞いて納得してわかった気になってしまうのはいけない。自分の目で展示してある写真を見るしかない。自動販売機もボケてしまえば美しい。