Shin Yamagata

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写真史(?)や白人から発生した自然観、風景観、作者の経歴や所属する団体に頼らない写真の見方


 コンクリートアスファルトは踏みつけるような瞬間的な力には強いが、植物が成長するようなじわじわとした微力ながらも継続し続ける力には弱い。よく話題になる大根(ど根性大根などと呼ばれる)や雑草などがアスファルトに覆われた地面を突き破って葉を伸ばしている光景を見たことのある人も多いだろう。そのこととこの写真集は、はたして関係あるのかないのか。

 寺崎珠真の写真集「LANDSCAPE PROBE」を見ている。以前二度写真展の会場で写真を見たことがある。写真展では気づかなかったが、写真集になって初めて気づいたことがあった。その一つが植物に反応してシャッターを押しているということだ。寺崎が植物を意識しているのかどうかはわからない。(寺崎と写真展の会場で話したことはあるが、植物が気になっているなどという話を聞いた覚えはない)どのページを開いても、どの写真を見ても植物が写っている。そんなことを言えばこの「ハイカロリー」の写真もかなりの確率で植物が写り込んでいる。明らかに植物に反応して撮影した写真もあれば、関心は別のところにあるけど植物が写ってしまっている写真もある。寺崎の写真集はたまたま植物が写ってしまったとは到底思えない、そのような写真が続いていく。最初のページも最後のページも、植物を撮影しました、と言ってもよさそうな写真だ。しかし……ここで言葉が詰まるのがこれらの写真の特徴だと言ってもいい。植物だけが写っている写真ではない。植物だけにフォーカスを合わせた写真ではない。しかし……
 タイトルの中にある「PROBE」は「調査、探査する」や「宇宙探査機」などといった意味がある。写真集には寺崎珠真の言葉が記されているので以下に全文引用する。

 私が写真をするのは、人間の心とは関係なく存在する世界への憧憬と敬畏、そして僅かでも人間という煩わしさの外から世界を見たいという思いがあるからである。風景と自分が共鳴するところに向かい、歩いては立ち止まり、シャッターを切る。しかし対峙する風景はぎすぎすしていて素っ気なく、撮れば撮るほど突き離されていくようだ。それでも、未だ見ぬ風景に出会うことへの衝動に突き動かされ、カメラを持ち日々その間隙の中を行き来する。
 これらの写真は、眼前を掠めていく認知以前の視野であり、探査の記録である。

 寺崎の言葉をかなり大雑把に端折ってしまえばこの写真集は「探査の記録」ということだ。探査するとなれば、どこを? ということになる。地球、とも言えるし、日本、とも言えるし、おそらく日本の関東近辺だとも言えるだろう。しかし寺崎は場所については自身の言葉でまったく触れていない。場所へのこだわりがないのかもしれない。言葉にはしていないだけかもしれない。わからない。これらの写真を見て、あえてどこを写しているかを言葉にすれば、都市部ではない住宅地、といったところだろうか。海はあまり感じない。遠景に山が見えている。スーパーやコンビニ、個人商店、チェーン店などがある場所を撮影していないから文字がほとんど写っていない。新しくアスファルトが敷かれ、ピカピカの建売住宅が並び、その合間に整えられた木々が植わっている、そのような写真もほとんどない。トタン屋根などの古い家が建ち植物が生い茂る、もう少し雑然とした場所を選らんで撮影しているようだ。なぜそのような場所を? やはりそこに植物があるからではないか。古い家にはたいてい庭がある。家の周りには余白とも言える土地があり、そのような場所にも草や木が生えている。それらの草や木はきちんと手入れをされているというよりも、放ったらかしにされて自由気ままに伸びているといった感じだ。寺崎の視線はそのような場所へと向かう傾向がある。しかし寺崎が記した文章に植物のことは一切触れられていない。寺崎自身は植物について何も語っていないというのに、わたしは寺崎の写真を見るとき、植物のことが気になって仕方ない。もう少し寺崎の言葉に寄り添って写真を見るべきなのだろうか。わたしは寺崎の言葉を無視して写真を見ているのだろうか(写真はスポンジのようなものだ。あらゆる言葉を吸収する。この写真は北海道で撮影されたものだと言えばそう見えるし、日本で撮影されたように見えるけど、本当は日本ではない、と言えば、へー、日本に似たところがあるんだね! というような感想が出てくるかもしれないし、この場所で殺人事件が起こったといえばそう見えてくる。写真は、あとからどうとでも言える、簡単に嘘もつける。嘘も屁理屈もコンセプトもどんな言葉も吸い込んでしまう)。
 寺崎はなぜ植物を撮影しているのか、なぜ植物に引き寄せられるのか。このときの「植物」を絞り込むことができる。寺崎が撮影する植物は大自然の中にある植物ではないし、植物園や立派な庭園で手入れされている植物でもない。住宅地や古い家の庭先、畑、畑周辺などに、多少は手入れされているものも含め、無造作に生えている植物がほとんどだ。他には人間によって切り倒された木の写真が数枚ある。植物単体で写っている写真はほぼなく、住宅、小屋、道、電柱、車などが一緒に写り込んでいる写真が多い。
 少し脱線する。例外がある。生コン工場というのか、ミキサー車が数台停まっている工場の駐車場を上から見下ろすような写真が一枚紛れ込んでいる。この写真には植物がほとんど写っていない。画面の中心は駐車場の地面のコンクリートだ。この写真に関連付けやすい写真が二枚ある。植物が刈られ、土が剥き出しになった脇にショベルカーが写り込んでいる写真だ。このような写真から物語を引き出すことは簡単だ。植物が生い茂っている場所に人間が入り込み、それらを伐採し、その後コンクリートを流し込み何かを建てる。人間 対 植物(自然)というような物語だ。開発、宅地造成、郊外、などといった言葉が写真界隈で飛び交った日々を懐かしく思い出す人間もいるかもしれない。しかしこういった物語こそが写真史や白人(男性)から発生した自然観や風景観(キリスト教的とか西洋的といってもいいのかもしれない、よくわからない)につながっていくのでこれ以上は踏み込まない。踏み込まないというか、つまらないからそういう見方はしない。順序立てて説明できるような事柄や論理的に言えてしまうことを写真化することほどつまらないものはない。
(しかし今現在、巷はそのような写真で溢れかえっている。プレゼンの上手い人間が評価され、写真を見る側が写真家にプレゼンさせようとする今の状況を見れば明らかだ。写真を見てその説明を読んで、それで納得できるような写真の何がおもしろいのか。クイズを出されてそのクイズが解けた喜びに浸るような感覚か。あらかじめ用意された答えに辿り着く喜びなのか。いつまでも試験問題を解いている学生気分のまま生きているのか。学校文化が抜けきらずに一生を終えるのか。あるものとあるものを掛け合わせて、ほら、こんなのできました、言って事足ることを写真にして、その写真を見てわかったような気になる、気にさせる。筋が通って論理的で的確に説明できるような写真が評価されるようになったのはいつからで、誰がやりはじめたのか。ほんとにつまらない。くだらない。アホらしい。このような「プレゼン映え」する写真が最近の写真の表側といえるなら、寺崎の写真はその裏側だといえる。寺崎は裏街道を突っ走っている。ほんとうか?)
(脱線してしまった)では、この生コン工場の写真をどのようにとらえるのか。植物が関係ないとすればやはり上記の物語を導入して見るのが一番見やすくはなる。しかし、そのような安易な物語は先にも述べたように糞つまらない。もしそんなことを寺崎が考えていたとしたらがっかりだ。がっかりするのもまたつまらない。よってこう考えることにする。この写真集には寺崎以外の第三者、悪知恵の働く大人が関係し、こういう写真を入れておくと物語が生まれてきていいんじゃないか、などと進言した結果、この写真が差し込まれることになった。ということにして、この生コン工場の写真を見て考えるのをわたしはやめた。
 寺崎の言葉へ戻ろう。「人間の心とは関係なく存在する世界への憧憬と敬畏」「人間という煩わしさの外から世界を見たいという思い」寺崎は人間の世界があまり好きではないようだ。写真展の会場へ足を運んでもゴシップ話ばかりを繰り返し、他人の動向を探り、隙あらば自身を売り込もうと当たり障りのない薄ら笑いを浮かべたあの写真家たちの集まり、理不尽なことばかり言ってわたしを縛りつけ不自由にして、付き合っているやつはいるのか? あいつと付き合っているのか? などといったセクハラはまだ序の口、ここには書けないような発言や行為を繰り返すあのおじさんたちがいる職場。そんなことはどこにも書かれていなかった。「人間の心とは関係なく存在する世界への憧憬と敬畏」「人間という煩わしさの外から世界を見たいという思い」と書かれている。寺崎は人間がいる世界とは別のところへ向かおうとしている。「未だ見ぬ風景」への衝動がある。そこに植物があったのではないか。人間と敵対する植物ではなく、だからといって人間とは無関係な植物でもない。ではここに写っている植物はなんなのか、あるいはここに写っている見えない人間とはなんなのか、誰なのか、またはこれらの写真はなんなのか。(未完、頓挫)

写真集の情報はこちら→ 寺崎珠真 http://ttrsk.org/index.html

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 全ての写真が晴れている日に撮影されている。探査するにあたって曇りや雨で霞み、モノの輪郭がぼやけ、遠景がはっきり見えなくなるのは探査日にふさわしくない。宇宙に散らばる人工衛星も太陽の光で動いている。探査するには太陽光が必要だ。モヤっとした写真を撮ってしまうと「日本の湿度が写っている」「情緒があっていいですね」などと誰もが言えてしまう安易な方向へ話が流れてしまう可能性が高くなる。安易な方向とは、すでにわかっている方向、結局何も考えていない方向だ。何をも喚起しない方向だ。すでに多くの人々にインプットされている感覚に訴えても何も起こらない。はっきりとした輪郭線、はっきりとした色、パンフォーカス気味の画面に均質に散らばる写っているものたち。寺崎にははっきりと見たい、しっかり見たいという欲望がある。「雰囲気」ではだめなのだ。「探査」し「調査」する必要がある。

一見無造作に撮られている。実際無造作なのだろう。しかし「絵」にする力が元々ある。センスといってもいい。センスを育ててきたといってもいい。ここでいう「絵」とは何か?

切り倒された木々をフレームに収めようとする寺崎はその木を見て「かわいそう」などと思っているだろうか。擬人化。安易な擬人化。人間への関心が薄そうな寺崎が、「探査」という言葉を使う寺崎が、擬人化など

寺崎の植物への眼差しにはどこか「探査」とは違う、「人間らしさ」が含まれているような気がする。