Shin Yamagata

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(応答)




(書いていることがあっちこっちへいっている間にとうとう糸崎さんがシビレをきらしてしまった。そして糸崎さんが書いてきてくれたことを読んでほーと感心してしまう。感心している場合ではない。きちんと答えていかなければならない。いや、そんなこともない。無視してもいい。でも無視するわけにはいかないような気がする。ただ一つずつ丁寧に答えていくのはよりややこしくなるような気もしている。なので糸崎さんの応答は頭に入れつつ、今まで通り書いてみよう。というか眠れない夜のことを書き始めたのがこんなところにきてしまっている。

ぼくの「路上ネイチャー」の写真に「緊張感がなくて、だからつまらない」というだけでは、「ボロカス」とは言えないですね・・・
果たして山方くんはぼくに対してもっとボロカスに言いたい気持ちを秘めているのか?それともこの程度の批判を「ボロカス」と表現したのか?どっちなんだろうと思ってしまいます。

テーマが「緊張感」なのだとすれば、路上ネイチャーには進化の対極である「人間」と「昆虫」が同時に写り込んでるわけで、その差異の中に「緊張感」があると言えてしまうわけです。
写真の真ん中にモンスターのように大きな虫が写ってて、その端っこに小さな人が緊張した面持ちで写り込んでいて、見てる方も緊張しないではいられないわけですw
あるいは、手前の大きな昆虫と、背後の小さな人の間に構図的な「三角形」が形成され、画面に緊張感をもたらしてると言えるかもしれません。

いやそんなのは山方くんの言う「緊張感」じゃないんだとすれば、こんなのはどうでしょう?
http://d.hatena.ne.jp/itozaki/
ぼくの「反ー反写真」なのですが、これは「路上ネイチャー」とは異なる種類の緊張感によって撮影していることを、自覚してるつもりでいます。
具体的に言えば、この「反ー反写真」は山方くんの写真のマネとして始めたのですがw、その時に「これは緊張感の問題なんだ」と思って、山方くんの「緊張感」を自分なりに取り込んだつもりでいるのです。
ですからぼくのつもりとしては、「路上ネイチャー」の緊張感と、「反ー反写真」の緊張感は別種であって、だから「路上ネイチャーには緊張感がない」と言われても「そりゃそうでしょう」としか思えないのです。

あるいは「糸崎は根本的に勘違いしてて、どっちの写真も緊張感を欠いていてつまらん」というのだったら、それはぼくにとって興味深いことです。
その路線でもっと突っ込んで評論すれば、ちゃんと「ボロカス」な言葉になるのかも知れませんw

ぼくの虫の写真と、山方くんの写真とを並べて「普通の人」に見せたら、たいていの人はぼくの写真の方が「面白い」といい、山方くんの写真を「分からない」と言うんじゃないかと思います。
ぼくの昆虫写真は子供にも分かりやすく、その証拠に『子供の科学』でも連載してるわけです。

一方、山方くんの写真は写真関係者には評価が高いですが、それ以外の人にとっては「分からない」という意見を、写真展のオープニングなどで実際に聞いたことがあります。
そしてこのぼくも、じつのところ山方くんの写真を「分からない」と思っていた一人で、そのことに悩んでました。

そこでぼくは山方くんの写真を分かろうと思って、とりあえず「マネをする」という方法を試し、ついにその良さを「深読み」することに成功したのですw
つまり山方くんの写真は、自分でマネしてみなければ理解できないほどの「深読み」が必要な作品で、それなのに本人が「深読み」を問題視するのはどうしてなんだろう?と思っていまうのです。

有り体に言えば、山方くんの写真は「虫がドン」どころか、いろいろなものが漫然と写り込んでいて、何を撮った写真なのか普通の人にはよく分からない。
対してぼくの写真は「虫」と「人」が両方写ってるから、普通の人にも分かりやすい。
異質な要素を一つの画面に並べるのはシュールレアリスムの一手法ですが、シュールレアリスムは「不思議な絵」ということで分かりやすく人気があるのです。
何もぼくは「分かりやすいことが良い」といってるわけではなく、分かりやすくて大衆的人気のある作品は、アートとしては「格下」で・・・って、ぼくの方がよっぽど自分のことをボロカスに言えるよねw

ということで、ぼくとしては山方くんの批判の先がどこに向かっているのか分からないのですが、どうなんでしょうか?